skulguyのブログ

とりとめのない完全な独り言を書き連ねていきます

根性論

根性は必要なものだが根性一辺倒は論としての体裁を成していない。

与えられた環境に頑張って耐え忍んで一番を目指すのではなく、自分が一番になれる領域を作り出してしまうというのが今求められている能力のように思う。

インターネットで情報が早く大量に流通するようになったので、こうすれば良いんじゃないか、こういうのが欲しい、というアイディアが生まれやすい状況になっており、

それを頭ごなしに押さえつけると不満ばかり溜め込ませることになる。またやる気を削ぎ無気力を産みアイディアが出ない悪循環になる。

 

何も考えず非効率なことを長時間繰り返し、理不尽なことに耐え忍ばせるのは、むしろ試行錯誤や創造から背を向けているという意味で皮肉にも怠慢と見られるだろう。

本人は歯を食いしばって懸命に頑張ってるつもりでも。

例えば、2時間全体練習し、2時間戦術を学び、2時間ビデオでフォームを入念にチェックし、2時間足りないところを自主トレするのに対して、

8時間水も飲まず怪我も押して歯を食いしばり与えられたメニューで猛練習するのは怠慢になるのである。

それはそれで冷たくシビアでもある。

 

新しく問いを立てて解決策を捻り出し、実行して結果を認めてもらうまでやる、というのをひたすら反復する、と言う点において根性は必要になる。

今までと違うのは、問いの立て方と答えを納得してもらうところまで歯を食いしばって頑張るというところである。

今までは自明だった問題が自明でなくなるので、当然答えについても何が正解か自明でなくなる。ルールが決まっているスポーツの勝ち方ですらそうだ。データを駆使することで革新的な勝ち方がどんどん生まれる。

正解はなく、大抵の場合は他人に正解っぽいと認めてもらえて初めて正解らしいものになる。論理的に正しく感情的にも受け入れられるというのが条件になるだろう。

 

もっとも、創意工夫とチャレンジができる人が突き抜ける、というのは実は昔も今も変わらないポイントかもしれない。

問題は突き抜ける天才ではなく普通の人がどうするかということで、ある意味普通の人も天才と同じ仕草をしなくてはいけなくなったという状況なのでそれはそれでしんどいだろう。

猛練習も理不尽も、そして得られる結果も、与えられるものではなく自分で取りに行くものになったのだ。

 

少し視点を変えると、脳死で猛練習に向き合うことで感情が鈍麻し、見かけ上の落ち着きをもたらす副次効果はあるかもしれない。

口下手鉄拳上等の昭和頑固親父の出来上がりだ。

でも令和だとたぶんASDとか診断名がつけられて障害者扱いされる。こだわりが強く、与えられたことを必死で黙々とやれる人に居場所があった時代なのだ。