できないことや欠点に目を向けがち。
自分のできることに価値はなく、世の中で必要なものは、すべて自分ができてないうちのことにある。
これはできてるけど、あれができてないからダメ。
そんな感覚が物心ついた時からずっとある。
成功した漫才師とか芸術家が俺にはこれしか無かっただけと謙遜する。
実際に人が当たり前にできることが苦手で人に頼っているということが多い。
一方で自分ができるパフォーマンスにおいては人を魅了し、社会に貢献し一角の居場所を持つ。
言葉にするとものすごく傲慢だが、自分も似たようなタイプだったかもしれない。
要するに得意と不得意の差が激しく、なおかつ得意な領域が狭くて特殊と言うことだ。
そして不得意なことが皆の当たり前にできることに該当する。
たまに自分の得意なことが表に出て評価されても、当たり前ができないマイナスを埋め合わせられた、あるいは覆い隠せたという束の間の安堵しかなかった。
幼少期勉強はできたが、家事ができないし運動もできないので、できたところで意味をなさないと思っていた。
だから必死に頑張ったのは得意な勉強ではなく、不得意な家事と運動の方だった。とにかく必死にやった。
でも必死にやるとはいっても、そのタイミングは家事なら頼まれた時、運動なら体育の授業の時、などと受動的に与えられる機会に限定された。
能動的に自分で目標を持って自主練をするまでの熱量はなかった。
空いた時間は何をしているかと言うとボーッとしていることが多かった。
楽しいことで時間を埋め尽くし遊び呆けているというより、何もせずボンヤリと無の状態にある。
あれこれ妄想をしながら、本をたまに見て知識を蓄えて、また妄想の材料にする。
それがある種得意なことであった。
この特技が実際生活上の何かの役に立つという感覚はなかった。
特技を披露することで人を楽しませたり、驚かせたり、テストの役に立つことはできた。
でも実社会の日常を回すためには何の役にも立たない無駄だと言う感覚があった。
負けるのが嫌いだった。思い通りにいかないのが大嫌いだった。ただでさえ役に立たない自分がお荷物になるのが申し訳なかった。
だから家事もスポーツも頑張った。社会規範に沿う、求められることであればあらゆることに真剣に取り組んだ。
それなりに結果が出て認められたこともあった。結果が出なくても必死さを買われたこともあった。
結果が出ても不安が隣り合わせだった。満足や達成感の代わりに安堵があった。
リーダーになったこともあった。リーダーになったらコミュニケーション能力も必要になった。
人とのコミュニケーションは、自分が昔からつまづき続けた、特に不得意なポイントであった。
人が多くて複雑化するコミュニケーション、人の気持ちがわからない恐怖、細かいニュアンスや場の空気感を汲めない恐怖があった。
そんな中でどう工夫して伝えたら人が納得して動いてくれるのか必死に考えた。
しかし結局高校生ごろには様々な要因があり緊張の糸が切れてしまい、無気力無感動になった。全てが人ごとで、全ての努力は無駄という感覚に陥った。
このような努力はどこまでいっても内発的な動機に紐づかないものであった。
外から与えられた、今の自分にできないことを、どうにかできるようにする。
その繰り返しで時間と気力は埋められた。
自分の努力の方向性、対象について冷静に構造化、客観視する余裕はそれほどなかった。
だから必死にやっている割には工夫は生まれにくかった。
必死にやった先のビジョン、どんな風にできるようになるのかというゴールもあやふやだった。
とにかくその場に適応することだけを考え、目先の結果や周りの視線だけを気にしてしがみついた。
理想、イメージが描けなかった。
昔の話が中心だったが、今も自分の特質は変わらない。
自己否定とか劣等感のような、ナイーヴな、自己存在と能力を紐付けることは、認知行動療法などを学びやらなくやった。
しかし結局のところ行動様式は受動かつ欠点克服のままだ。そしてこの行動様式は心身ともに疲れやすい。
特に現在、インターネットには様々な情報が溢れる。
そして仕事ができる人の発信を見て焦る。
とにかく会社から与えられたことをできなくてはならない。
そして会社の周りの評価だけでなく、インターネットに溢れる赤の他人のアウトプットにも焦る。
この人はこれができるのに、自分はできない。やったことがなく、考えたこともなかった。まずい。
このくらいの水準でできないと、この視点、経験、知識がないとヤバい、同じ仕事で似たような年齢なのにこんなに知見が豊富なのか、
会社を放り出されたら今のスキルでは何もできない、今たまたまこの会社に属してるからこの給料貰えてるけど本来的にはこれができない自分に払える給料はない、
と、次々悲観的な視点ばかり出てくる。
ひたむきさと向上心はあってもいいと思うが、それにしても自分の強みや好きなことと紐づかない努力は息が詰まる。
人生は長く、欠点克服型の努力は途中で息が切れる。
劣等感をバネにのし上がった人もパワハラ気質に変貌してキャリアを登りきれないという。
大体キャリアを登るのは何のためか?
まずは生活のためだ。しかし最悪生活保護でも餓死はしないのに?最悪のケースがふんわりしている。
幸福のためか。しかし金と立場は幸福と紐づくのか?両方持っていた経験はあるが、幸福は別の次元にあった。
結局、自分の特質をどう活かすか?必死にやるべきは目の前の不得意なことではなく、それを考えることだった。
ずっと自分自身を後回しにしていた感覚だ。気づいたのが遅かったかもしれない。