skulguyのブログ

とりとめのない完全な独り言を書き連ねていきます

不健康

ろくに仕事が進まず休んだほうがマシだったという日もある。

ここ数日睡眠リズムが崩れてしまい、入眠が遅くなったうえに眠りも浅く、早めに目覚めてしまう。

1日でも眠りが遅くなると、睡眠リズムを取り戻すのに一週間はかかるから厄介だ。

そして急に気温は上がり、曇りとか雨の日が続き気圧が不安定なせいか、ダルくて頭痛がする。

在宅だとだるい時すぐに寝られてしまう。辛い時に堪え性なくダラけてしまう原因にもなる。

なんだかんだで出勤した方が緊張感があって頭が冴える…のだが、出勤の程よい緊張に頭痛と怠さが勝ってしまい、ダメなものはダメという有様だ。

 

そんなこんなで頼まれた仕事に手をつけられていない。

顕在化したタスクを受け身で捌くのは最低限できるが、フワッとした長期的タスクを自ら計画して進めていくのはどうしても馬力がいる。

計画と期限決めとtodoレベルのタスクへの分解が肝で、これさえできれば後は捌いていくだけという形になるのだが、これが骨が折れる。健康な時じゃないと上手くできない。

頑張ればいけるというフィーリングなのだが、自分が感じてる以上に具合が悪いのかもしれない。何を言ってるか自分でもよく分からないがそんな感じだ。

 

何の根拠もないが、案外脳の血管がどこかが破れてるとかそんな有様だったりするのかもしれない。

老後の生活とか年金がもらえるかとか家賃が払えるかとか、そんなことを心配して考えていたが、案外老後なんて無いままポックリ逝くのかもしれない。

人生100年時代とはいうが、独身男性の寿命の中央値は67才だという。孤独がストレスになったり、あるいはアルコールとか適当な食生活が原因になったりしてこんな短くなっているらしい。

孤独は別にたいしたことないのだが、生活が適当なのは図星だからドキッとしてしまう。

すぐ食える加工食品、あるいは外食ばかりで炭水化物や脂質に偏った食事。乱れた睡眠。運動不足。などなど。

昨日の夜など、頭が痛くてだるい中どうにか飯を食った後に頭痛薬を飲もうとしたらいつの間にか寝落ちしていたのだ。

寝落ちは睡眠じゃなくて気絶に近いらしい。

俺が死ぬ時は多分こんな風に、あっさりとよく分からないうちに死ぬのだろう。

酒との付き合いは難しい。

俺は酒に酔ったことはない。気持ち悪くなってすぐ吐くからだ。

酔える奴が羨ましい。

酔ってテンションを上げて潰れるまで飲んでしまう人は酒の効果を最大限に受けていて得だ。

その点俺は損しかしてない。

 

飲み会もそんな得意ではない。

酒も苦手なら、人と話をするのも得意ではない。

大人数でざわつく環境も苦手だし、話の輪に入るのも得意ではない。

話を聞きながら料理を取り分けるとか、気を利かせるのもあんまり得意ではない。

俺の頭の回転は鈍い。目の前にある情報を理解し整理するのに時間がかかる。

まあ普段話す機会のない人とも話すチャンスだし、ある程度場数を踏んでそこそこうまくやれるようにはなった。

飲み会では大体聞き役に回るが、比較的上の人が語る思い出話なんかが好きだ。後々役に立つこともあるし、単純に興味深く聞けるような話も多い。

とはいえ、どうしたって体力は消耗する。気力も削れる。本当は一人で静かに過ごしたい。

二次会までいたらなんだかんだで5時間くらいは拘束される。時間も長いし、帰るのも遅くなる。

そして俺は酒を飲めないから会が深まるにつれてシラフになっていく。

でも周りはどんどん酔っていく。

そうなると、だんだん酒が抜けてシラフに近づいていく自分とベロベロになっていく周囲とでテンションに差が生まれてしまう。

酔っ払って同じ話題を繰り返したり、テンションが意味不明に高くなったりしていく会話の渦に巻き込まれず、客観的に見えてしまう。

間違いなく巻き込まれた方が楽しいのだ。でもどうしても巻き込まれることができずに冷めてしまう。

それに会が長引くと、せっかく一次会で聞けた面白い話なんかの記憶も薄れてしまう。これも残念なポイントの一つだ。

とはいえ、飲み会の場の記憶自体は残念ながら飛ばない。特に他人のやらかしを俺はよく覚えている。割と時間が経ってもその時の光景を思い出すことができる。不愉快な記憶ほどよく残る。

 

飲み会の後は大体寝つきも悪くなる。

アルコールのせいで眠りが浅くなってしまうというのもあるらしい。

しかしノンアルコール飲料として大体ウーロン茶を頼むせいで、カフェインで目が冴えてしまうというのが主たる原因かなと思っている。

他のノンアルコール、例えばジンジャエールとか炭酸飲料、あるいはジュースなどは、お腹に溜まってしまうのでアルコールの気持ち悪さが悪化する。

飲みやすさを考慮すると大体消去法で烏龍茶になる。

料理が脂っこかったりすると尚更だ。

あとは飲まされる流れになった時に、烏龍茶をウーロンハイに見せかけることもできる。

まあ予め周りに飲めないキャラだということを周知していれば飲まされる流れもある程度は回避できる。いい時代になった。

しかしどんないい人と飲むいい飲み会でも、不眠になるのは変わらない。翌日の心身のコンディションがゲロ悪になる。

 

酒が飲めれば、バーなんかにも通って、そこで人間関係を広げたりうまい料理を食えたり酒の飲み方や知識や奥深さを知れたりしたのかもしれない。

カッコいい渋い大人だ。まあでも美味くて良い店は別にランチでも開拓できる。

逆に、酒が飲めてしまうと、ストロングチューハイをケースで買いためて毎日飲んで空き缶が部屋にどんどん溜まっていくアル中になるという方向にいってしまう可能性も否めない。

酒はコンビニで手軽に買えるから、ストレスの捌け口に酒を使うというのはだいぶハードルが低い。

仮に飲めたとして、俺は後者に当てはまるタイプな気がしている。

続・掃除

土曜日はたまった洗濯物を洗濯機で回し、先日からやっている掃除と片付けの続きをやった。あとはNISA口座が開いたので、買い付けを行うなどした。

外に出かけようかとも思っていたが、家でできることを中心に過ごしている。

 

今日の片付けは机の中や箱の中を中心にやったので、片付けの前後で部屋の見た目は変わらない。

しかし片付けの過程でいろんなものが出てきた。この狭い空間にこれほど物が多く詰まっていたのかと驚いてしまった。外から見た印象通りではない量のものが詰まっている。

しかも中身はといえば、もう10年近く前に使っていた仕事の資料や書類、引っ越し前に通っていたゲーセンのカード、云々…っといった具合で、今までどこかにしまっていたことさえ忘れていた代物であった。

部屋の見た目は変わらなくとも、片付けを終えるとだいぶ気分的にもすっきりし、なんだか長年溜まっていた膿を抜いてデトックス治療をしたような気分になっている。

 

金曜日あたりからまた体が不調だ。花粉の薬の抗ヒスタミン成分が悪い方に作用したか、その割に鼻が詰まって睡眠の質が落ちているせいか、いや花粉でなく昨今の黄砂のせいか、ここ数日落ち着かない天気と気圧のせいか、全部が複合的な感じ。

それで週末頃は仕事で頭の回転が回らない感じになっていたし、今日もなんだか本調子ではない。

でもこれぐらいの状況を「デフォルト」だと思わなくてはならない。

調子のいい時にできることは「基準」にしてしまってはならない。でないと自己嫌悪や後悔がつのり、余計にますます動けなくなってしまう。できうることまでできなくなってしまう。

 

部屋の片付けの過程ではないのだが、昔自分が書いていたブログまで発見してしまった。

内容は今の自分と大差ないようなトーンだった。悩みを吐き出すような内容で、同じようなところでグルグル回っているような感じで恥ずかしくなる。

当時の自分はコミュニケーションが苦手なことで悩んでおり、体力がなくいつもごろごろしてしまうことでも悩んでいる。今の自分と全く変わりない。

しかし今と昔で違うのは、自分の性質そのものではなく、性質に対するアプローチの仕方であると気づく。

自分の質を変える努力、は重ねてみたはずだが、やっぱり無駄に終わるのだなと改めて思う。

それよりも自分の質は何なのか細かく見定め、方法論、マインドセット、仕組みの部分を磨いていくこと、見方を複数持って一つの見方にとらわれないことが大事なのだなと思った。

あと、昔は今と違って文章をやたら丁寧に長く書こうとしていたようだ。つまり気軽に文章を吐き散らしてしまう厚顔さも当時は無かった。良くも悪くも年を取ったということか。

雑記 24/4/17

気温が上がり25度くらいの日が続く。知らないうちに水分不足になって頭が痛くなる。

それで意識的に水を飲むのだが、飲むとすぐ小便になって出ていく。

これで果たして水分がちゃんと取れたことになってるのか不安になるが、まあ水を飲んでいれば体調は悪くならないしおそらく大丈夫なのだろう。

節約のために水筒を持ち歩こうとしたこともあるがやめた。安いやつを買ったのだが、なんか水が不味くなってしまう。あれは何故なんだろうか。

 

公園や街路樹その他の緑が多いこともあってか、よく虫が湧く。コバエや小さな蜘蛛が家に侵入するようになる。

しかし今日はデカいアシダカグモが部屋の外を歩いているのを見つけた。こいつだけは入れさせないようにと扉の開け閉めにはかなり気をつけた。

害虫を食ってくれる益虫だとも言われるが、ちょっと俺の家では持て余す。

虫は全般的に苦手だ。小学生の時、それも中学年の頃だったか、どうしてもセミを触れなくて泣いたことさえある。

 

ヘドロが詰まって水が流れにくくなった。おまけに水道管が臭って仕方ないので、仕方なく水回りの掃除をした。

おそらくは先住者から、そしてクリーニング業者もあまりちゃんと手入れしていなかっただろう汚れまでを含めて、丁寧に掃除した。

賃貸でそこまでする義理はないのだが、掃除をする間は何も考えなくて良くて気分がいい。

長年の溜まった汚れを落とすと、心まで洗われるかのような感覚にさえなる。

禅僧の修行に掃除があるのもこんな効果があるからこそだろう。たぶん。

 

しかし睡眠リズムはまた崩れる。

一昨日はよく眠れたこともあって、昨日は頭の回転が早くて冴えていると思っていたら、そのまま回転が止まらず遅くまで眠れなくなってしまった。

遅い時間にカフェオレを飲んでしまったせいかもしれない。牛乳でカフェインが相殺されない。

それで昨日は1日中眠くて仕方なかった。

しかし昨日は夕飯を食った後ガクンと眠くなり、そのまま寝落ちできそうだったので、早めに寝るチャンスだと思いシャワーを浴びたら、

そのシャワーがスイッチになってしまったか、頭が逆に冴えてしまい、思考が止まらなくなり、またしても入眠に失敗した。

それで今日もずっと眠いまま過ごした。

寝不足で負ったダメージは1日では取り戻せないし、一旦崩れたリズムは中々治らない。

とはいえほどほどに働き生きるなら、これくらいの日がたまにはあってもいい。

これから

遅ればせながら仕事のインプットを増やす。

今まで読んでいた本はメンタル関係、発達障害系の本が多かった。

仕事の本も読んでいたが、内容は仕事術、コミュニケーション術、心の整え方やマインドセットなど、全般的な心構えやライフハック方面の内容が多かった。

だから具体的な知識やスキルに関してはこれから身につける。専門性だけでなくいわゆるポータブルスキルと呼ばれることも含めてだ。

だから今から学ぶには今更すぎるのではないかと二の足を踏んでしまいそうになる。

 

なんでそうなったのかというと俺は心が苦しくて仕方なかったからだ。

心が苦しくて仕方なくてもがいていた20代は間違いじゃなかったと今振り返れば言えるが、

やはりその間に積み上げたものの違いが今出てしまっているとも感じる。

俺が心の問題でもがいている間、仕事の問題でもがいたやつは仕事のことを身につけてメキメキ成長している。

でも今からでは遅いと諦めるには先は長すぎる。

とはいえ現実を踏まえて非現実的な野心を抱くのは禁物だ。

俺は出世や金持ちになることは望まないが一生どこかしらで必要とされ食いつないでいきたい。

目の前のことから一生懸命になれば望んだ未来は叶うかは分からないが今は充実はする。

やっぱり不貞腐れてぶら下がって隠れて遊んでいては後悔することになる。

未来は思い通りにならないし、他人や環境やマクロ経済といったどうしようもない外部的な運は絡んでくる。

だから変に考え込み過ぎず、次、次、と淡々と今と少し先のことだけ考えてコツコツやるしかない。

他人の評価は大事だがそれに応えることばかり考えていてはまたメンタル不調になるからまずは仕事と自分にフォーカスする。

結果的に評価につながっていればそれでいい。

 

同世代では、仕事で結果を出しガンガン稼いで、一家言持って世の中に発信するような立場の人もいれば、

ニートや引きこもりから脱しようとしてもがく人もいる。

前者の発言は目立つし、今の自分と比べて焦りを感じる。しかし彼らの考え方や感じ方や知識を真似しなくてはと学ぶものの、やっぱり何かが噛み合わない。違和感を感じて疲れてしまう。

俺はどちらかというと後者に考え方や感性が近い。たまたま置かれた環境が異なっただけで俺はたまたま働き続けられているものの、それだけの話だ。能力なんかはほとんど変わらない気がする。

phaさんや大原扁理さんみたいに、自分の入れる隙間を探して、自分の本当に欲しいものだけにフォーカスし、工夫して小さく暮らすというやり方に共感を覚える。

生き方も人によって適したやり方がある。

上を見たらキリがないというが上とは結局のところ何なのだろうか。せいぜい稼いだ金の額くらいか。

それぞれがそれぞれにもがいている。人生思い通りに何でも叶っているように見える人でも、全く何も悩んでないという人はいないだろう。

 

人を騙したり傷つけて捕まる奴もいる。俺はそうはなりたくない。

不慮の事故で死んだ奴もいる。俺もいつかはそうなる。

断捨離

久々に活動的な土日を過ごすことができている。やっと元気が戻ってきた。

今年の4分の1が終わったというのに、年始休みも返上で働きづめで疲れ切ってしまい、天井を見上げているばかりで終わってしまった。記憶がない。

昨日は鎌倉近辺を散歩して、源氏山公園あたりを軽くハイキングした。桜も見ることができた。葉桜だったが、その葉の緑も乳白色が混じり、そこに春の日の光が溶けて優しい感じ。これなら汚くなくむしろ風情があって良い。

今日は朝から部屋の整理にあたって、自分が昔書いたものや昔の部署で使っていた本、着なくなった服なんかを処分していた。

物を買うときよりも捨てる時の方がワクワクするのはなんでだろうか。

新しい自分に脱皮できたような、すっきりとした気持ちになる。

もうこれはいらない、これは使うことはない、ここには立ち戻らない、と決意を新たにするような、

退路を断つと行くべき方向が決まって頭の中がすっきりする。踏ん切りがつく。

断捨離という言葉はもともと何の言葉かはよく知らないが、とにかくいらなくなったものを捨てるだけでなく、

何かを捨てる決断をすることで過去の自分から少しずつ決別し生まれ変わるような心持ちのことだろう。

過去のものは今の自分の心と紐づく。ものをなくすと不安になるのは、ものがなくなって困るからだけではないだろう。

思い出の一部だったり、過去からの自分の継続だったり、そういう心の一部を占めるものになっている。

しかし何かを得ることは何かを捨てることと気づく。

何かを得るために何かを犠牲にする、何かを得るスペースを空けるため得たものを捨てる。

すべては一度に手に入らない。もとより、何一つ自分のものであるということはない。

空白

空白、というかインターバルというか、ダラダラしている時間が長い。

脳みその電池が残り30%とかになってスリープ状態まではいかないが低出力の状態になる。

朝起きてはボーッとし、食べてからボーッとし、腹が減ってもボーッとし、退勤後も疲れてボーッとする。

慢性的にもやもやした疲れが常に頭の周り、体を覆っていてだるい。

割と物心ついた時からこんな感じなので、今おっさんになって体力が落ちたからというわけでもなさそうだ。

本当はシャキッと起き、バリバリしっかりと冴えた頭で働き、終わったらガンガン夢中で遊んで、一瞬で眠りにつきたい。

でもそんなメリハリの効いたことにはならず、怠さの緩やかな波間でいつまでも揺蕩っている。

 

ダラダラ、というが厳密な意味で何もしていないということではない。何もせず何も考えないことには耐えられない。

だから空白を埋めようとするのだが、それも無為と呼んで良いような全くどうしようもない代物なのである。

たとえばSNSやネットで興味のあることや悩み事、最近合ってない知り合いのことを調べたり、

ショート動画で動物やお笑いの動画を見て癒しを得ようとしたり、

ソシャゲを開いて閉じてルーティンの周回をしたり、たまにまとめサイトや匿名掲示板を巡回したり、

とにかく無産のインプットだけしている。

というか頭にちゃんと定着してないからインプットですらない。

点滴を打って最低限の栄養だけ摂ってるような感じ。

例えば、悩み事ならガッツリそれについての本を読んでみたり、お笑いならしっかりギャグアニメとかお笑い番組を見たり、

もっと腰を据えた強度の高いインプットをした方が、実りのある時間を過ごせて満足感も高いはずだし、記憶にも残って後々の糧にもなるはずなのに、どうしてもそれを体が受け付けられない。

摂取しようとしても3分とかで離脱してしまう。うまく消化できず頭を通り過ぎてしまう。

 

こうして人生の糧を増やせないまま時間だけが過ぎてしまう。興味のあることの一つや二つ語れるほどのこともない、全くつまらぬ人生になってしまう。

本当はあの時間にあれができたのに、まあ調子が良くなった時にでもやるか、また今度、いつかは、というモヤモヤが残り、蓋をして先送りする。それが結局何十年も積み重なっていく。

単なる先延ばしが、未来の甘い可能性かのように残る。可能性があればあたかも希望かのように錯覚してしまう。

また今度、は永久に来ないかもしれないのに。

頭の片隅ではわかっているのに、脳みそは疲れ切り、やはり体の方は動かない。