skulguyのブログ

とりとめのない完全な独り言を書き連ねていきます

発達障害

発達障害の人の持つ個性は人類の可能性を広げることがある、ということが時々言われる。

異なる着想があるから斬新なアイディアや解決法を生み出し、こだわりがあるから粘り強く取り組む。

一方でそうなれないタイプの方が圧倒的に多い現実がある。エロ漫画好きでカラーの塗りにこだわるジョブズ崩れ、鉄道写真のことしか頭にないマスク崩れとか。

つまり大体は集団の輪を見出すばかりの迷惑な、穀潰しである。

 

役に立つタイプもいるが、それは大きく分けて職人タイプと芸術家タイプに分かれる。神様がいた頃は神託者タイプもいたはずだが、今いたら病院行きだ。

しかし個性とか多様性とは言うが、例えば職人タイプの人の活躍できるところは減った。彼らの給料とコミュニケーションをコストに加算すると、機械の方がずっと安上がりだ。少なくとも彼らと煩わしいコミュニケーションを取らなくて済む。

芸術家タイプもchat GPTに置き換えられるだろう。斬新なアイディア、というのはゼロから生む物ではない。あくまで過去の産物の組み合わせなのだ。だから過去のデータがたくさんあり分析整理可能な形になっているインターネット空間をAIに回遊させれば良いのだ。

 

市場が求めていることはより安く、より良いものを手に入れることだ。そしてそれを大衆が求めていれば求めているほど市場は大きくなって良い。

発達障害者は少数派で、彼らとの煩わしい交流は求められていないのだ。つまり多数派の求めるソリューションとは、なるべく彼らと関わらないことだ。言い換えるとそういう市場が存在する。

市場原理といえば自然で普通のことなので、疑ってかかるのは変なことだ。負け惜しみに見えるが、残念ながら負けということだ。経済的には排除が正しい。

合理的配慮、総活躍社会、と言っても利益につながらない煩わしい交流を片務的に負わされる健常者が可哀想だ。

彼らだって仕事が余裕でこなせているわけではないし、プライベートの悩みだって抱えながら必死で生きている。なのに追加でデカい赤ちゃんのお荷物を背負わされる。

世間に余裕がないのは行きすぎた配慮、行きすぎた支援が浸透してああるからではないだろうか。