skulguyのブログ

とりとめのない完全な独り言を書き連ねていきます

対話

クルド人が埼玉で騒いでいる。そのことで、美しい日本を守らんとする愛国烈士と世界平和を望む先端的知性がぶつかりあっている。当のクルド人川口市民はいないようだ。

まあ両方とも自殺すれば人種差別とか犯罪件数とかで悩まなくて済む。悩みたくないからこそその種を解消すべく論争しているのだと思うが、たぶん今後も似たようなことが起きるから根本的には解消しないし、悩むのも疲れるだろうから早めに死んだ方がいいではないか。第三者にとっても、ネットがうるさくなくなっていいから三方良しだ。

極端だ、と非難する人もいるかもしれないが本当のことだから仕方がない。

 

この例を挙げるまでもなく人間同士が分かり合うというのは難しい。

正確に言うと、俺たち通じ合っているという幻想を共有できる状態を維持するのが難しい。

この共有が成立するのは体育祭中のクラスとか付き合いたてのカップル、地元が一緒の友人くらいではないか。

俺は体育祭とかサッカー観戦の一体感は好きだが、普段の生活には持ち込んでほしくないという質だ。

だから日常、例えば会社でいうと、やたら営業や飲み会に前のめりの体育会系組織や、ギラギラしたカタカナ語連発仕事の鬼的キラキラベンチャーとは絡みたくない。

普段は穏やかにして引きこもっていたいのだが、それを破って侵入してくるのだ。これは完全に自分の中の自然なペースと相反する。

逆の立場に立てば、一人になろうとする俺に対して困惑と心配と、不穏さを感じ取るだろう。おかしい、暗い、何かあったのか、変な奴だ、とりあえず酒飲ませておくか。という具合だ。

 

会社を例に挙げたが、見渡せば夫婦とか兄弟とかとにかく諍いまくりである。言葉とか国土が同じもの同士でもこんな有様なのだから、ましてや移民との対話なんて無理である。

移民はただでさえ行政を頼れないし、人も少ないし現地民からどんな目で見られているかわからなくてストレスがたまる。結局差別され、出ていけ国に帰れと言われる一方、帰れないから来たので板挟みになる。

といっても移民を完全排除するのは今後無理になるだろうし、折り合いをつける必要がある。俺が体育会と付き合うのと同じように。言葉と常識が違うので難易度は相当上がるが。

 

敬して遠ざける、というのは知恵である。少しずつぶつかり合ってここは話し合える、ここはあきらめてほっておく、ここは譲れないから線を引かせる、というラインを慎重に見に行く。

ひたすら我慢してわだかまりをため過ぎて爆発させたり、あるいは増長させて侵入を許したり、避けすぎて分からなさを増大させ偏見を固定化させたり、暴力的に排除して遺恨を生んだりするのはすべて失敗だ。

話し合ってすべてを分かり合う、仲良くなって手を取り合うということもまた不可能だ。

分かり合えれば勿論最高だが、分かり合わなくても何とかなるという代替案のラインを引いておく必要がある。話せばわかるとキラキラ勇む若人は、いざ話し合うとガッカリすると思う。わかってくれないことのほうが多いし、何回も話さないとわからないことは多い。

かといって面倒くさがって全排除しようとすると、成功裏に終わったように見えても、今度はこっちがしっぺ返しに合うのがオチだ。戦争に有史以来ずっと勝ち続けた民族はいないし、全国統一したヤンキーはいない。日露戦争には勝ったが結局北方領土は取られた。ましてや現代社会は利害が複雑に絡んで第三者から常にけん制され膠着してている。

うまくすれば、お見合い結婚した見ず知らずの男女が円満な老後を迎えるようになるが、うまくいかなければあえなく熟年離婚する感じになる。

対話は面倒なのだ。