またしても戦争である。
グローバル化、すなわち世界のほとんど全てが国際的に利害関係、商業で繋がっている昨今では、イスラエルの戦争でも西友の卵の値段が上がって日本の主婦が眉を顰めるという結果を生みうる。
風が吹けば桶屋が儲かるどころの騒ぎではない。
言うまでもなく戦争の話は気が滅入る。
しかし気になって見てしまう。そして案の定気が滅入る。
気が滅入ると少しでもいいニュースがないか、あるいは悪いニュースがないかさらに気になる。
そんなループ。
そして悪いニュースに対する暗い期待が無いとも言わない。
どこかで崩壊や悲劇を目の当たりにしてみたい、黒色の好奇心だ。
しかしどれだけ理由を立て並べたところで、とどのつまり戦争の理由なんて
・やられる前にやる
・やられたからやり返す
の2通りしかないではないか。
そして誰が初めにそれをしたかは誰も知らない。
自分たちがカインかアベルかも知らない。どちらの地も受け継いでるかもね、とするのが曖昧なアジアの考えか。
もっとも、古代とかなら
・やりたいからやる
みたいな選択肢があったのかもしれない。
それがないだけまあサルから一歩だけ(毛が三本分だけ?)進歩してるのかもしれない。
案の定子供がたくさん死んだ。
子供が殺された、その悲しみは数代かは直接的に、語り継がれればさらに数世代は実際的な悲しみとして感じるだろう。
しかしそれ以上は?歴史的悲しみはただの概念で、ある種の装置である。根本的に揺れ動く人間の大脳旧皮質にアクセスして刺激するスイッチにしかならない。
今ガザからシナイ半島へ、一般市民を巻き込まないように避難経路を準備しているそうだが、
市民の中に兵士が混じって兵器とかを作ってる、ゲリラを仕掛けるなんてよくあることで合理的だ。
そしてそれを疑うのも合理的だ。
だから正直言って市民ごと殺すのが手っ取り早い。アメリカはそうやって日本を倒した。
ところが国際法というルールがあってそれができないらしい。守れないルールをなぜ作ったのか?
どうせルールを作るのなら、砂漠のど真ん中にやりたい奴(昔でいう騎士階級)だけ募集し、ヤアヤア我こそは、と牧歌的かつロマンティシズムに溢れた殺し合いをやれば良いではないか。
殺し合いたい人は殺し合いができて、関係ない人は巻き込まれなくて、winwinである。
現代の戦争は情報戦、SNS工作だか世論操作だかもする。
頭でっかちな理論派は、世界全体から切り離され、言葉だけの実態のないパズルにのめり込まれ、理論に当てはまった部分にだけはまりこんでいく。SNSは居心地がいいに違いない。
頭でっかちに理論を作り、こうこうこういう理由だからお前もユダヤかイスラムに付け。と関係ないアジア人を巻き込もうとする日本語のできるエリート層の白人がSNSやテレビで騒ぐ。英語圏では尚更のことだろう。
しかし理論が正しいイコールそのもたらす結果が正しいのだろうか?
もたらす結果が正しいのか、そもそも正しいとは何かを批判的に考えることなしに作る理論とは何なのか?
例えば厳密な定義と反証をもって構築された科学理論により原爆ができたのは正しいのか?
そしてそれを広島と長崎に落としたのは、当時最新の科学的かつ厳密な理論で慎重な思考を重ね、白人を避けたのだろうか?
彼らに言わせてみれば、正しいか正しくないかで言えば、正しいのだ!
例え彼らが全くもって完全に誤りなく理論的に正しいとして、しかしその理論に従い向かっている方向が破滅ならば、矛盾まみれの直感で平和の方を選びたい。