skulguyのブログ

とりとめのない完全な独り言を書き連ねていきます

多様性と規範

多様性を認めないと言う多様性は認められない。

 

変人でもどうにか社会でやっていけてる者としてどちらかというと多様性という概念の恩恵に預かる方の立場ではあるが、たまに見かける濫用具合には違和感も感じざるを得ない。

いつでもどこでも誰にでも、自分の個性とか主張が認められるべきだと言う態度をカマす人が増えたようにも思う。

相手がなぜそう言ってきたのか想像し、相手の気持ちや過去の経緯を慮る努力と、時に自分を引っ込めて我慢して相手を立てるバランス感覚も全く無しに、

とにかく自分を正義の被害者としてコーティングするのだ。

そうしてSNSで簡単に100人だから1000人だかの人の同情と共感をもらって一緒に怒ってもらい、スイミーみたいになって相手をやっつけるのだ。(でも目はやりたがらない)

 

要するに人間はかくあるべしという各民族だか国だかの規範がなくなって、代わりに多様性というふわっとした概念になったは良いが、それが何なのかちゃんと説明できる人がいない。

それこそ複雑で多様な社会を営むための指標=成熟の基準が無くなったも同然になり、みんな右往左往してサルに戻りつつあるんじゃないだろうか。

自分はこうしたいとギャーギャー喚くばかりで、言葉こそ大人っぽい単語と論理を使いながらも使い方は幼稚園児のそれと変わらないと言う有様だ。

挙句、人の魅力は金だとかエサだとかセックスの相手の多さだとか、動物園でよく見る情景が理知的っぽくオシャレにコーティングされた言葉で表現され、さもそれが都会の常識みたいになる。

要は大脳旧皮質とチンチンで大脳新皮質が駆動している状態なので、ガワが違うだけで田舎のオッサンが野球と風俗と競馬とパチンコの話で盛り上がるのと中身に大差はない。

 

生産性や合理性という補助線を入れると多様性の正体がわかるかもしれない。

例えばサッカーで人種差別するのはダメだがヘタクソに出て行けというのは差別にならない。言い方は流石にオブラートに包むけど。むしろ当然だと思われるだろう。

要するにサッカーが上手いならブラジル人でも片親でもゲイでも良いよという話であり、サッカーのうまさという物差しだけでドライに分かりやすく合理的に判断する。

逆に、そこには同じブラジル人だからサッカーが下手でも良いんだよというある種の甘い暖かなフィールドは存在しない。

そしてそういう価値基準がサッカー場を離れてあらゆるコミュニティに侵入していくというのが現代ではないか。

 

多様性を認める、というのは結局のところ所属するコミュニティにおいて生産性高くあれ、

そうである限り出自や人種、性別、障害あらゆる要素は不問にするということであり、

生産性が低いなら飛行機も翻訳機能もあるんだから自分が生産性高くなれるコミュニティを探してどこにでも動け、ということなんじゃないか。

考えてみたら何ともこれはアメリカ的な発想だ。出自が悪くても社会的成功を掴めるというアメリカンドリーム。スポーツ、芸能、ビジネス、その他なんでも。

生産性と成功の価値観は常に競争と脱落がセットなのでそれでホッと一息つけるコミュニティは形成できない。

 

これと対極にあるのは田舎のコミュニティであり、そこではナントカ村の人でさえあれば良いという限りない受容がある。

しかしそれは排除と一体であり、排除の条件は人を殺したとかしきたりを破ったとか自治会の会合を休んだとか、

それを自分はやってなくてもそいつの家族だとか友達だとかが理由となり非言語的かつ非論理的で連帯責任的なものである。

排除された人はコミュニティを出ていくまで怒りと偏見の三角コーナーになり悪いことが起きたらそれ全般の原因として扱われる。要はマイナス感情の三角コーナー兼共通の敵という結束のための小道具として扱われる。

出て行ったり死んだりした後も弔いはするが裏側で墓石に唾を吐かれたり代々続く昔話のネタにされたりする。

 

暖かな排除か寛容な戦場か。いずれにせよ一人で生きていくことはできないので競争か身分かどちらかを選んで生きていかなくてはいけない。