仕事で小さいミスをした。話し合って尻拭いをしてもらうことになった。
ちょうどそのタイミングでとある記事を読んだ。
発達障害と思われる同僚に仕事を教えるも、指示通りに動かなくて困っていると言う内容だ。
その同僚にはイマイチ人材という名が与えられ、記事についたコメントには、こんな奴どうしようもない、話を聞く気がない、という被害者の意見が踊った。
指示通りのこと、或いは考えればわかることを察せなかった自分は背筋が凍り死にたいと思った。
役に立たないと思われること、そしてストレスを掛けたり尻拭いをさせるといった実害を与えてしまうことが何よりもガッカリし恥ずかしく思うことだ。
誓って努力不足ではないのに、或いはやる気はあるし懸命に理解しようと聞いているのにもかかわらず、他人から努力不足、やる気や聞く気がない、と思われることにはとても怒りを感じる。
確かに能力的にはできないかもしれないが、そんな堕ちたクズ人間とまで思われる筋合いは流石にないんだぞということは証明したいと思う。
でも結局実らない努力はただの自己満足であり客観的にみてやる気がないように見えているということは、事実としてやる気がないということなのだろう。
やる気やその他自分の態度というものは、主観的なものに思えるが、その実、客観的な水準があり未達か達成済みかを判断されることで成立する概念なのだろう。
つまり自分がどう思っているかは感情面・思考面ともに押し殺さなくてはいけない。押し殺して他人に従い適応することだ。
自分の気持ちは事実ではなく、一方で事実こそがその人間がクズかどうかを決めることなのだ。
つまり俺はクズということなのだ。