skulguyのブログ

とりとめのない完全な独り言を書き連ねていきます

生きづらさ

2月なのに25度で夏日。バカみたいな気温だ。

風呂か台所の排水溝か、どこか水場に産み付けられていたハエが孵化して羽化して家の中を悠々を飛び回っていた。

次の日は冷たい雨の日だという。おそらくハエは死ぬ。

交尾する相手も餌も見つけられず四角い人工無機物の中で生命活動を停止する。

たまたま生まれた時代が悪かったとか早すぎたとか考える余地もなく自然のサイクルに取り込まれて生という現象が閉じ、厳然とした死という結果が生じる。

対して恒温動物の人間は気温変化で具合が悪くなるくらいのことはあっても死ぬことはない。

さらに遠くから運んで保存した餌もあり温度を維持する外部装置もあり、ほかにも疫病から身を守る数々の道具を持つ。

しかし具合が悪い状況からは抜け出したいと必死になる。

しかもその悪あがきのために、原初から変わらない、かつて猛獣や飢饉や人同士の争いから身を守るためのうるさすぎるセンサーを使うからしんどい。

でもセンサーがうるさすぎるのは仕方ない。起きようとしている危機に気づかなければ不可逆な死が待っているからだ。死んだら取り返しがつかない。

人間は原始時代から変わっていないのに周りの環境は激変した。それもここ100年くらいは特に急激だ。

疫病と戦争と飢饉は少なくとも現代日本にはない。世界からもなくなりつつある。

そうなると生きたいという欲求は、その質を変えずして、よりよく生きたいという欲求にシフトする。

言い換えると自分の思い通りにすべてが進むことであり、しかもそこに「死なないこと」という、一番思い通りにならない、かつ一番意識せざるを得ない大きなファクターがなくなるのだ。

その隙間には、肉が食いたい、お湯を沸かしたい、清潔に過ごしたいといったことから始まり、高いビルやスマートフォンやおしゃれな服になり、やがて学歴とか金稼ぎとかイノベーションとかモテとかジェンダーとかカルチャーとかいろんなものが詰め込まれる。

そしてそれがないと死ぬかのように振舞って見せる。本当にないと死ぬのは医療とインフラ、義務教育くらいなのだが。

しかし空白は空白のままにしておけない。そしてどうでもいいことを詰め込み、結果どうでもいいことに悩む。

頭じゃわかっていても、やっぱり悩む。疲れているとほとんど無抵抗に欲求や感情に引きずり倒される。

メタ認知は鍛えても感覚には負けてしまう。まだ俺は弱い。

頭の中を整理して感情と現象を分け、感情をくみ取りつつもあくまで迅速かつ理性的に判断することが俺にはできない。感情に引きずられた拙速な判断をするか、いつまでたっても物事を整理できず踏ん切りをつけられず判断が先延ばしされ永久にできないかのどっちかだ。

算数の試験問題を見ると焦点がぼやけて同じところを行ったり来たりしつつ、関係ないことをしっちゃかめっちゃかにしながら関係あるところを見落とし、誤答を引き出すか何もできないまま回答時間が過ぎるか、そんなことを思い出す。何か迷い悩むたびにこれとそっくりな状況に飲み込まれていると感じる。

上に書いたことと関連するのかさっぱりわからないが、悩まない、または悩んでもすぐ解決できる人は数学もできたのか?俺は進学校に通っていたのにその辺のヤンキーより数学ができなかった。誇張や比喩ではなく模試の結果がはっきりと示している。