skulguyのブログ

とりとめのない完全な独り言を書き連ねていきます

不眠の日

入眠に失敗した。早起きまでしてしまった。トータル4時間くらいしか寝られていない。リアルな夢でまどろんでいたのでたぶん結構浅い。

何もせず休みたいが、しなくてはいけない仕事が溜まっている。

でも手をつけるのを怖いと思ってしまう。

頭の中が混乱して手をつけられるサイズのタスクに分解できない。いつもの工夫ができない。

というか頭の中が妄想で埋め尽くされて止まらない。思考がポンポン飛ぶ上に全部ネガティヴな方向に行く。

あてもなく安心できる答えを探そうとネットサーフするが当然見当たらない。

そして目の前の仕事は終わらないし締め切りが近づく。ますます怖くなる。

希死念慮まで浮かび上がってくる。

典型的な負けパターンだ。

不眠さえなければと思うのだが、だいぶしんどい。一番しんどい。

雑記

春先は色々と難しい。

花粉が飛ぶ。鼻水が止まらず外出ができない。運動の習慣を中断せざるを得なくなる。

夜も鼻詰まりが酷く、眠りが浅く睡眠不足になる。途中覚醒入眠困難も生じる。

気候がコロコロ変わる。三寒四温などいうが、その差が激しい。寒暖差で自律神経がやられる。

春の嵐春一番。低気圧がやってきて頭痛がする。

対策としては減感作療法でアレルギーを数年掛かりで治し、自律神経を整えるため丁寧に暮らす。正直金も掛かるが手間が掛かる。

それから、社会的なものとしても、異動や歓送迎会がある。年度末がある。プレッシャーもかかり、環境の変化が大きい。

春で好きなのは新緑の5月くらいのものだ。緑は目の保養に良い。晴れて穏やかな日差しがあるとなお良い。

 

今日は久々に散歩したが、頭痛と疲労感で退散してしまった。

足腰の筋力の衰えも感じる。運動しなくなり、体幹の筋力を動かさなくなってもう10年経つ。

昔はいくらでも歩けたのに、長時間歩くと足腰にだるさを感じるようになってしまった。こんなことは無かった。

筋トレをしないといけないが、筋トレは正直昔から苦手だった。部活の時は一生懸命にやっていたが、自主的にやるほどの熱量はない。

体にはほとんど筋肉がついておらずガリガリだ。運動をやっている時から筋肉がつきにくかったが、それが悪化する。

食べる量は普通なのだが、栄養を吸収しきれていないのか。内臓の問題なら何をすれば良いのか?

マッチョでなくとも、中肉中背が一番健康的ではなかろうか。

太れる体質は才能だ。運動さえすれば、脂肪が落ちてそれなりに良い体格になれるポテンシャルがある。

筋トレしている人のアカウントのビフォーアフターでも、最初は太っている人の方が筋トレの成果で良い体になっていることが多い気がする。

痩せていると銭湯などで脱ぐと少し恥ずかしさを感じる。

太るところから始めなくてはいけなくて、でもその方法が分からない。プロテインをとっても中々太らない上、お腹を壊す。

俺は死ぬまで一人なのだから、歩けなくなったら中々にまずい。足腰だけでもどうにかしないといけない。

頭だけ冴えていて体が動かないのが一番な苦痛と想像できる。

でも筋トレはいつも後回しだ。一応買った器具もすっかり埃をかぶっている。

心理的安全性

自分が比較的ストレスを溜めず、高いパフォーマンスができていた頃は、心理的安全性が高い部署であったように思う。

まだ勉強中なので曖昧な部分も多いが、以下のような特徴があり、自分から安心して動くことができた。

ゆるい仕事と雑談が混じったようなレベルの話を部署内でする。

意見を否定せず、まずは傾聴し、自由闊達な雰囲気を作り出す。指摘も言葉を選んでニュートラルに話す。

情報共有を加速し、知見を雪だるま式に増やす。

アイディアを出し合い、チャレンジを促進する。

悩みを抱えず、メンタルの不調や仕事のトラブルを未然に防ぐ。

これが特徴だろうか。

人のやる気を引き出し、安心感を覚えさせ、一人一人の力を最大化する。

協力しやすく、組織で働くメリットを最大化する。

言い訳ばかり許すぬるい職場とは違う。

チャレンジのない職場はやがて面倒臭い感情と過去経緯の積み残しにより、人のやる気を奪う組織になってしまう。

 

古い日本企業にはおそらくこれができない。

いわゆる体育会系エリートの職場は尚更だ。

一人一人が個人商店化してお互いのタスクが見えず、情報や知見が属人化している。

そもそも自分の立場を守るために仕事を抱え込もうとする。あるいは怒られたくなくて秘密を抱える。

協力して仕事を進めることでも、知見の平準化が進んでおらず聞かないとわからないことが多い。

結果として仕事の進め方やコツが秘伝のタレと化しており、過度にコミュニケーションに依存している。

そのくせ、コミュニケーションが取りづらい環境にある。

年齢による上下関係とそれに付随するプライドが面倒で、細かい指摘やダメ出しで立場を作ろうとする。

対等な対話は生ませず、圧を掛け、言い訳や論点ずらしが上手い。

相談しても頭ごなしで人の話はよく聞かず、言い方はいちいちキツい。

話を聞く姿勢が欠けており、瞬発力頼みで会話するタイプが多く、伝え方に気をつけないと、伝わるものも伝わらない。

 

頭の回転が早く、自信があり、野心があり、減点法を躱すことに慣れた、いわゆる学校的・部活的エリートが集まるとこうなる。

やりづらい相手にどう対応するか、というのも一つのコミュニケーションスキルであり、また仕事上そういう人をどう上手く丸め込むかというのも重要だが、

それはあくまで社外のキーマン相手とかそういう次元であり、仲間内相手に日常的にするものではない。

 

わけあってこういう職場にひとり派遣されており、適応しようと頑張ったが、すっかり消耗してしまった。

組織の体質を少しでも変えたかったが、一人では限界だった。

自分もまた心理的安全性の高い職場を作る一員でありたいと思った。

インプット

仕事で悩むたび、人生で迷うたびに本やSNSyoutubeや個人ブログを読み漁る。

自分に似てそうな人、参考になりそうなものを探しつつ、いちいち自分に当てはまるか、自分ならこうする、と考えながら読む。

無批判に全部を受け入れるわけではなくとも、結局自分の意見があやふやなままだ。

そして情報過多で整理できない。

だから問題解決にならない。

まず問題が特定できてない。

そして自分のスタンスも確立できてない。

ゆえにああした方が良い、やっぱりこうした方がいい、とイマイチ方向性が定まらずフラフラ漂ってしまう。

 

アウトプットが少なくてインプットが過度に多い。

インプットでなくアウトプットが必要だ。

内容を整理して、何が原因でありこれをどうするか、自分なりの解釈をもって明らかにしなくてはいけない。

でも自分で判断するのが怖くて、間違いや見落としが怖くて、他人の視点が無いことを気にして、情報を永久に集めまくる。

人の意見や経験をあてにして中途半端にはめ込もうとする。それでいて踏ん切りをつけるわけでもなく、キリなく調べ続ける。

インプットは半分趣味みたいなものだが、こと人生や仕事の問題解決という目的があるのであれば、アウトプットが無いと悩みや迷いはかえって悪化してしまう。

 

書くこと、それから決断することが重要だ。

自分の人生の責任は自分で持つ。失敗を怖がらず自分で結果を受け止めること。人のせいにしないこと。

決断には覚悟が必要だ。

ブログやyoutubeなんかで、間違った決断をしてしまった人が後悔を書き連ねているのを見て、

横からこうすればよかったのに、俺ならこうしない、とあれこれ考えるのが癖になっているが、

でも結局、俺は自分が今どんな立場にいるのか、何をしたいのか、というのが分かっていない。

岡目八目というやつだ。

自分の人生はあくまで自分だけが分かる。

自分の人生に腹を括らなくてはいけない。

人の目線を気にして、人の期待に応えることばかりが軸となり、危険そうなことを反射で避けるだけの、いつまでもモヤモヤした悩みを抱えた人生になってしまう。

欠点

できないことや欠点に目を向けがち。

自分のできることに価値はなく、世の中で必要なものは、すべて自分ができてないうちのことにある。

これはできてるけど、あれができてないからダメ。

そんな感覚が物心ついた時からずっとある。

 

成功した漫才師とか芸術家が俺にはこれしか無かっただけと謙遜する。

実際に人が当たり前にできることが苦手で人に頼っているということが多い。

一方で自分ができるパフォーマンスにおいては人を魅了し、社会に貢献し一角の居場所を持つ。

言葉にするとものすごく傲慢だが、自分も似たようなタイプだったかもしれない。

要するに得意と不得意の差が激しく、なおかつ得意な領域が狭くて特殊と言うことだ。

そして不得意なことが皆の当たり前にできることに該当する。

 

たまに自分の得意なことが表に出て評価されても、当たり前ができないマイナスを埋め合わせられた、あるいは覆い隠せたという束の間の安堵しかなかった。

幼少期勉強はできたが、家事ができないし運動もできないので、できたところで意味をなさないと思っていた。

だから必死に頑張ったのは得意な勉強ではなく、不得意な家事と運動の方だった。とにかく必死にやった。

でも必死にやるとはいっても、そのタイミングは家事なら頼まれた時、運動なら体育の授業の時、などと受動的に与えられる機会に限定された。

能動的に自分で目標を持って自主練をするまでの熱量はなかった。

 

空いた時間は何をしているかと言うとボーッとしていることが多かった。

楽しいことで時間を埋め尽くし遊び呆けているというより、何もせずボンヤリと無の状態にある。

あれこれ妄想をしながら、本をたまに見て知識を蓄えて、また妄想の材料にする。

それがある種得意なことであった。

この特技が実際生活上の何かの役に立つという感覚はなかった。

特技を披露することで人を楽しませたり、驚かせたり、テストの役に立つことはできた。

でも実社会の日常を回すためには何の役にも立たない無駄だと言う感覚があった。

 

負けるのが嫌いだった。思い通りにいかないのが大嫌いだった。ただでさえ役に立たない自分がお荷物になるのが申し訳なかった。

だから家事もスポーツも頑張った。社会規範に沿う、求められることであればあらゆることに真剣に取り組んだ。

それなりに結果が出て認められたこともあった。結果が出なくても必死さを買われたこともあった。

結果が出ても不安が隣り合わせだった。満足や達成感の代わりに安堵があった。

リーダーになったこともあった。リーダーになったらコミュニケーション能力も必要になった。

人とのコミュニケーションは、自分が昔からつまづき続けた、特に不得意なポイントであった。

人が多くて複雑化するコミュニケーション、人の気持ちがわからない恐怖、細かいニュアンスや場の空気感を汲めない恐怖があった。

そんな中でどう工夫して伝えたら人が納得して動いてくれるのか必死に考えた。

しかし結局高校生ごろには様々な要因があり緊張の糸が切れてしまい、無気力無感動になった。全てが人ごとで、全ての努力は無駄という感覚に陥った。

 

このような努力はどこまでいっても内発的な動機に紐づかないものであった。

外から与えられた、今の自分にできないことを、どうにかできるようにする。

その繰り返しで時間と気力は埋められた。

自分の努力の方向性、対象について冷静に構造化、客観視する余裕はそれほどなかった。

だから必死にやっている割には工夫は生まれにくかった。

必死にやった先のビジョン、どんな風にできるようになるのかというゴールもあやふやだった。

とにかくその場に適応することだけを考え、目先の結果や周りの視線だけを気にしてしがみついた。

理想、イメージが描けなかった。

 

昔の話が中心だったが、今も自分の特質は変わらない。

自己否定とか劣等感のような、ナイーヴな、自己存在と能力を紐付けることは、認知行動療法などを学びやらなくやった。

しかし結局のところ行動様式は受動かつ欠点克服のままだ。そしてこの行動様式は心身ともに疲れやすい。

 

特に現在、インターネットには様々な情報が溢れる。

そして仕事ができる人の発信を見て焦る。

とにかく会社から与えられたことをできなくてはならない。

そして会社の周りの評価だけでなく、インターネットに溢れる赤の他人のアウトプットにも焦る。

この人はこれができるのに、自分はできない。やったことがなく、考えたこともなかった。まずい。

このくらいの水準でできないと、この視点、経験、知識がないとヤバい、同じ仕事で似たような年齢なのにこんなに知見が豊富なのか、

会社を放り出されたら今のスキルでは何もできない、今たまたまこの会社に属してるからこの給料貰えてるけど本来的にはこれができない自分に払える給料はない、

と、次々悲観的な視点ばかり出てくる。

 

ひたむきさと向上心はあってもいいと思うが、それにしても自分の強みや好きなことと紐づかない努力は息が詰まる。

人生は長く、欠点克服型の努力は途中で息が切れる。

劣等感をバネにのし上がった人もパワハラ気質に変貌してキャリアを登りきれないという。

大体キャリアを登るのは何のためか?

まずは生活のためだ。しかし最悪生活保護でも餓死はしないのに?最悪のケースがふんわりしている。

幸福のためか。しかし金と立場は幸福と紐づくのか?両方持っていた経験はあるが、幸福は別の次元にあった。

 

結局、自分の特質をどう活かすか?必死にやるべきは目の前の不得意なことではなく、それを考えることだった。

ずっと自分自身を後回しにしていた感覚だ。気づいたのが遅かったかもしれない。

考えることと行動すること

考えることと行動すること。

昔から考えることは得意でも行動は不得意だった。

考えすぎて動けなかったり、考えた通りに全然できなかったりする。

或いはそもそも運動神経やコミュニケーション能力が低すぎて、うまく実行できること自体がほとんどなかったり。

 

考えることは得意でも、考えついたことは他の人にはほとんど言わない。

言ったところでピンと来なくて無視されてしまうということが多かった。

そこで人にしつこく食い下がるガッツは無かった。

代わりに自分一人で黙々とやることはできた。

それもまたある種のガッツと言えるならガッツがあることになる。しかしそれにも人からの助言が得られないので限界はあった。

 

言い出しっぺなのに自分ではできない、というのは情けないと思ってしまう。

自分ができもしないことを人にやらせるのか、という罪悪感も生じるし、あるいは自分の考えは最初から出来もしない机上の空論ではないかと思ってしまう。

集団の中で、ただでさえ行動ができなくて足を引っ張る奴が、変にこうしたら良い、こんなものがあれば良い、など口だけ出すようなことが果たして許されるだろうか?

無視され生暖かい目で見られるか、頭でっかち、文弱呼ばわりが関の山だ。

正確・迅速・平均以上のクオリティでの実行こそが全てであり、尊ばれる。

だから考えることよりも、皆と同じように実行できるように努力しなくてはと思う。

あわよくばそうして一人前になれば、自分の考えを聞いてくれたり自分で実行できたりするようになるのではないか、という淡い希望を抱きながら。

結局それは叶うことがなく、うだつの上らない実行を細々とやりながら、やがて考えること自体をやめてしまう。

 

しかし実行フェーズのことはおそろしくできない。

おまけに行動力が無い、ように見える。やる気がない、のろいというレッテルを貼られる。

自分ができる行動とは思考であり、一般的に行動と見做されない。

武器を作ったり武器を比較したりどんな武器が必要か考えて作戦を立てたりすることは比較的できるが、武器を使うことは下手だし遅い。

そして武器を使うこと以外は行動とはみなされない。

考える役割の方にしたって、世の中には上位互換がいる。国のトップオブトップくらいの実力なら認められる。そして俺はその水準には遠く及ばない。

何ならそれなりのエリートになれば思考も行動も両方できるという人も多い。

 

周りがどんどんやるのに自分だけできなくて置いてかれる、お荷物になる、それが自分の中でもコンプレックスになっていた。

苦手なことは工夫して乗り切るか、人に頼るかの選択肢があるが、

人に頼るには普段から信用貯金を積み上げたく必要がある。

場所によっては自分の得意なことで信用貯金を積み上げることがほとんどできなくて難しかったりする。

とにかくやる、が是になっていて考えることや作ることは大して重視されず、

考えることや作ることを工夫すること自体がピンとこない、それよりも早くやれよ、そんなことに逃げんなよ、よく分からん、と言われてしまう環境だ。

工夫にしたって自分一人でやるしかない。誰もがとにかくやれ、やってみろ、しか言わない。

そして上手くいかないのを繰り返す。

営業

いつでも、どこでも、何でも売る。売るものはあくまでも会社が決めるのが原則だ。

お客さんと話をたくさんし、信頼を得て、売るヒントや糸口を掴む。

きっかけを掴んだら話を重ねて買いたいという気持ちを形成し、受注までの道のりを手繰り寄せていく。

一度ダメだった顧客にも戦略を立てて、あるいは戦略がなくてもリトライする。しつこいと思われることを恐れずにリトライして何でもいいから材料を取りに行く。受注後のアフターケア含めある程度の細やかさとしつこさが必要になる。

他社に抜かれないように、或いは社内の同期に抜かれないよう、抜かり無く行う。

営業はおそらく自分に一番向いていなかった。

自分が素敵だと思うものを共有して共感するのが好きだ。広まっていくととても嬉しい気持ちになる。

だから営業の仕事にも好きな側面はある。資料を作ったりオーダーに対するソリューションを考えたり、ある程度得意な側面もある。

でも自分は根本的にコミュニケーションが苦手で、関係地を築くのがゆっくりだったり、築けない相手もいる。

ライバルに抜かれる予感にも鈍い。しつこいのがイヤで、ダメと言われるとある程度は食い下がってもあっさり引いてしまう。かと言って適切な引き際が分からずあしらわれてしまうこともたる。

これはという発想がわかなければ中々動き出せず、とにかく考えずに数を当たるということが不得手だ。

意識してできるようになろうと鍛えるが、マシにはなっても上手くはならないし、やっぱりボロは出る。

どんな仕事にも苦手な部分というものはあるし、ある程度は忍耐して工夫して対処しなくてはならない。

しかしそれでもあまりにも不得意が大きいと対処するコストが成果に見合わなくなる。

石の上にも3年、という言葉があるが、これはまだ古くなってないと思う。要するに3年やってダメならダメだろうと諦めがつく。