新卒の子が自分の部署ではないが、近い部署に入ってきた。
気付けば年下も組織の中でかなり増えてきた。俺も結構年上の方になってきていると気付く。
中年男性は否が応でも、リーダーシップを発揮したり、キーマンになったりすることを期待される立場になる。
でも実際の俺はうだつが上がらない平凡な労働者だ。言われたことはまあ真面目にやるが、上手くもない。
一方で、若くて利発な後輩が雨後の筍のようにニョキニョキ生えてくる。
頭の回転の速さとか論理的思考力、新しい考え方や価値観・スキルのアップデートなんかは不利になってるのを感じる。若さゆえの素直さやスピードは既になくなっている。
ベテランに求められるのはいざという時頼れるかどうかに尽きる。
なのに俺は今までやってきたことや知見を自信を持って語れない。
というか、言語化できてない。
その上で、自分の強みやそれが発揮できた経験も、ハッキリと言えない。
だから、こんな時どうしたらいいか?と聞かれてもしどろもどろになるか、うまいことゴマかすかしかできないんじゃと思ってしまう。
この状況はまずいとは思いつつ、力が出ない。
シンプルに疲れてしまっているのもある。
また、仕事を頑張らなくてはと頭の中で考える一方、
仕事に本気なんか出したくない、報われない資本主義の仕組みに絡め取られるだけだ、
それよりも今まで苦しくて我慢してきた分、仕事なんて自分の分だけ要領よく片付けて日々を楽しんじゃえ、
と言う心の声も確かにするのだ。
まあ確かに仕事をクソ頑張ったところで上げられる収入はたかが知れている。
資本のデカい歯車を動かしてデカく儲け、次の仕事の仕込みや歯車のメンテに当てて、さらに儲かる仕組みを作っていく。
それが資本主義なのであり、働かないと食っていけない労働の現実からは逃れられない。
金の流れやありかが見えていてそれをハックできる、すなわち商売の才覚があるフリーランスにでもなれない限り大金持ちにはなれまい。
それに、人が死ぬ間際で後悔するのは、働き過ぎて自分の生きたいように生きなかったことだと言うではないか。
だから仕事という選択肢を捨てると言うのも、一つの生き方だ。
まあ何もできない痛いおっさんになるのとはトレードオフだ。何かを得れば何かを失う。
大事なのは、何を得て何を失うかよく考慮し、責任をもって判断し、その結果を人のせいにしないことだ。
仕事を捨てといて、仕事で後ろ指を差されたことで文句言ってたらダサいことこの上ない。
でも仕事を片付けて空いた時間で何をするのか?と言われても大したことはしない。
漫喫行ってカフェ行って美術館行って、旅して飯食って本読んで、というくらいのものだ。
大昔、創作をするのが心からの情熱であり、楽しみだった時期もあった。
しかし、今となってはその炎も消えてしまったかのようだ。
体力・感性・好奇心が揃い、余計な先入観もないという最良の時期を、さまざまな事情が重なり、見事にグッタリと病んで過ごしてしまった。
今はもう立ち直ったが、しかし一度消えた炎は燈らない。
もう一度火が燈ることを祈りながら色々刺激を与えてみても、沸点まで心が盛り上がらない。
イメージも浮かんでは形になる前にデロデロの水子になる。
またやりたい、またやれたら、という思いだけが燻っているが、よくよく見てみると、燻っていると言うよりもはや湿り切った黒い燃え滓が残っているだけだったという有様だ。
何事にも旬はあり、逃すと二度とやって来ないのだ。
ある種の自分の死を受け入れて進んでいくしかあるまい。