skulguyのブログ

とりとめのない完全な独り言を書き連ねていきます

競争についてのメモ

競争心は向上心につながる。努力の動機になる。

努力は自分のできることを増やし、自分を生かし、人を生かすための力にもなる。

でも過剰な競争心は自分の本心を霞ませる。

競争とは、勝ち負けの定義とルールがあって初めて成立する。

明示的にしろ暗示的にしろ、明確にしろ曖昧にしろ、ともかくそれは自分が作ったものでは無い。

だから勝ち負けにこだわりすぎると、本来の自分の感性や感覚を殺し、

他人の作った基準に自分の行動や感性までも合わせてしまうことになってしまう。

かくあるべしという鋳型に自分を無理やり嵌め込み、ついに元に戻せなくなってしまう。

勝ち負けにかかわらず、伸ばせるはずだった自分の考えや感性、可能性を潰してしまう。

競争と努力の意義は、勝つことそのものでない。

勝つために努力する過程で、自分の持てる最大限の力を出してみる経験をすること、

そのために工夫と忍耐を重ねて心身の強度を上げること、

そして競争を通じて客観的に自分の能力の器の形や大きさ、特徴や使い方を知ることにこそある。

 

競争なんて言いつつ、大きなカテゴリに分けて言い換えると、生存と繁殖と承認になるだろう。

本来、生物であれば生存競争が8割、というかほぼ全てと言ったところだろうが、

幸いなことに、現代日本で人間として暮らす分には生存は比較的簡単になった。

残りの繁殖と承認のゲームは思春期に駆り立てられ、若者の時に決する。

ゲームが終わったらあとは比較的ゆったりとした時間が続く。

小さいながらも社会に居場所があり、 一員として歯車をしっかり回し、

身の丈にあったことをする、目の前のことだけを考える、日々を懸命に大切に生きる。

自分の心に従って、大切な友達や家族と楽しいひと時を過ごす。

これが競争が終わった後の生き方のはずだ。とても理想的だ。

 

しかし現実はどうか。

会社内の競争は40過ぎのオッサンになってからも続く。

何なら社会全体が限られたパイの奪い合いみたくなっている。

変なマウントに巻き込まれ、こうあるべきという社会規範はハードルが高まる。

中年なのに腕時計が安物で、子供を塾に通わせたり最新のゲームを買い与えるための金がないような相対的貧困に陥る、というわけだ。貧困?

(子供って塾に通うものだったのか?空き地で拾ったボールで友達と遊ぶんじゃないのか?"考えが古い"のか?)

そんなこんなで中年でも心身ともに若々しくいて、若いものと混じって、若いものがやる様な競争することを強いられる。

正直しんどい。

なんなら遅咲きのロールモデルなんかも提示される。

余計なお世話だ。また競争しろと言うのか。

 

俺は昔から大の負けず嫌いだった。

今はマシになったが、たまに頭をもたげる。

競争心、何くそ魂は確かに自分を伸ばしてきた。しかし心が焼き切れてしまった。

そこで競争心の正体を見つめ、認め、手放していくことにしたのだ。長くなりすぎるのでここでは詳しくは書かない。

ところでストレングスファインダーで俺の性格を分析すると、競争心はかなり下の方だ。

代わりにメチャクチャ高いのは回復志向で、言い換えるとマイナスをゼロに持って行こうとする心の動きだ。

つまり勝ちたいと言うより、負けたく無いのだ。

 

毎日少しでいいから、競争を忘れて本心に向き合う時間くらいは欲しいものだ。